今や推定地は50カ所以上。プロ、アマの研究者が激しい議論を繰り広げる邪馬台国所在地論争は、今なお衰える気配がない。日本人を古代史のロマンに駆り立てるブームを巻き起こした背景には、一人の男の熱い人生があった。
日本古代史最大の謎といわれる邪馬台国。3世紀に編纂(へんさん)された中国の歴史書「三国志」の「魏志倭人伝」に登場し、当時の日本列島の国々の盟主的存在だった同国の女王・卑弥呼は、239年に魏へ使者を送り、金印や銅鏡を下賜(かし)されたと伝えられる。だが、その国のあった場所は、いまだにわかっていない。
失明から一念発起、各地を調査して歩く
それを探し求め、多くの人々が挑んだのが「邪馬台国の所在地論争」だ。江戸時代以来、学者の間で続けられてきたこの論争を一気に身近にしたのが宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』だった。
宮崎は1917年、長崎県島原市生まれ。早稲田大学卒業後、脚本家となったが、家業の建設業を継ぎ、島原鉄道常務取締役に就任する。しかし、過労がたたり失明。一念発起して各地を調査して歩き、妻の口述筆記で65年から雑誌「九州文学」に連載したものをまとめたのが本書だ。
宮崎は邪馬台国研究を志した理…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル